が夜空の星々のあいだをゆっくり移動していく様子を“天空をわたる舟”に見立てて詠んだ歌が、万葉集にいくつも収録されている。

(あめ)の海に
月の舟浮け
桂梶(かつらかじ)
かけて漕ぐ見ゆ
月人荘子(つきひとおとこ)
   【万葉集 十巻二二二三】

 月の舟をこぐ船頭として描かれる「月人荘子」は、月を若い男性に擬人化した表現だ。

秋風の
清き夕(ゆうべ)
天の川
舟こぎわたる
月人荘子
   【万葉集 十巻二〇四三】

 古来、月はその規則的な変化をとおして、私たち人類が「とき」を知るための手がかりとして活用されてきた。月を観察することで「こよみ」も発明された。

「こよみ」の語源は「日読(かよみ)」。和暦では月の満ち欠けと日付が完全に連動しているから、日にちを知れば月の形がわかるし、逆に月を見ればおおよその日付もわかる。日本では「こよみ」にはそうした機能があった。

「こよみ」が「日読」であるなら、このような機能をもたないグレゴリオ暦を、「こよみ」とはいえないだろう。

 キリスト教の宗教暦であるグレゴリオ暦では、「とき」をイエスの復活と“最後の審判”の待つ終末へと向かって一方向へのみ突き進む、一本の矢印と考える。だから日々はカウントダウンを刻む目盛りでしかない。

 日付はほかの何とも一切関係がない、順に割り振られた記号にすぎず、和暦のようにそこからなにか情報を読むことができない。つまり「日読」ではない。

 一方、月の満ち欠け周期にもとづく和暦の「とき」は、いわば“らせん”のような循環構造。グレゴリオ暦の毎日が、終末の瞬間まで消費され続けてゆくだけの対象であるのとは対照的に、和暦では過去、現在、未来が重層的に折り重なり、「とき」はらせん状にめぐり、つむぎだされる。

 一本の矢印ではなく、そこには深さや広がりがあるのだ。まさしく海のようではないか。

 さながら和暦は「とき」の海をわたる舟のための海図である。

 和暦の「わ」の字は「わたる」のわ。和暦がつむぐ「とき」のなかに身を置いてみよう。ゼロへとに向かってすり減っていくグレゴリオ暦的世界から、私たちはたちまち抜け出して、「とき」の海をわたる舟人になれるはずだ。

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