現代の感覚だと誕生日や結婚、周年などを慶んだり、その気持ちを表現することが「祝う」だが、本来は好事を祈願する呪術も含めて「斎う」だった。
「斎」という字には“穢(けが)れを祓(はら)って心身を清める”といった神事や神聖性と結びついた意味があり、「斎う」はまじないなどの呪術的な行為や祭祀(まつり)などの神道儀礼を行うことをさす。
万葉の時代、イワウに祝福の意味はなかったようだが、イワウことで好ましい結果が訪れるならば、「斎う」はやはり「祝う」であろう。
正月、節分、ひな祭り、端午、七夕、お盆といった全国的に共通のものから、神社の祭礼など各地に伝わる地域的なものまで、数ある日本の伝統的な年中行事。いずれも由来にもとづいた特定の月日に、決められた装飾や所作をもって執り行われる。
その作法はしばしば極端に抽象化、様式化され、身振りや発声、使われる道具の形体など、現代人の目には理解不能でいささか奇異に見えたりもするが、それはこれらの行事の真髄が「斎い」にあるからにほかならない。古くからの形式を厳格に守ることによってこそ呪術、祭祀は成立し、目的は成就される。
だとすると「理」のわでふれた正月の神迎え同様、現在、年中行事のほとんどが和暦ではなくグレゴリオ暦の月日で行われている事実は実に罪深い。日取はその行事が行われるようになった起源や由来と直接的に結びつくという点で、「斎い」の最も重要かつ不可欠な条件といえるからだ。
グレゴリオ暦で行われる年中行事は、儀礼の本来の意味を無視したものといえ、「斎い」の前提条件は崩れ去る。であれば最早それは伝統でさえなく、そこに込められていたはずの意図や意義も無化されることになる。「斎い」でないのだから「祝い」でもない。日本から「祝い」はなくなってしまうだろう。
私たちが行うべきは、「斎い」を取り戻すこと。それには和暦が必要だ。「斎い」はそして「祝い」に転じる。
和暦の「わ」の字は、「祝う」のわ。私たちは日本を祝福しよう。和暦は「祝う」を取り戻し、日本を寿(ことほ)ぐこよみである。