幕末~明治初期の状況
和暦からグレゴリオ暦への急進的な改暦がカネの問題に起因していたという事実はなんとも不細工な印象を与えるが、いたしかたない側面があったことも否めない。
新政府は明治四年(一八七一年)の廃藩置県実施によって、江戸の中期あたりからすでに深刻な財政難を抱えていた旧藩の債務もまるまる引き継いだばかりだった。現下のひっ迫した財政危機を前に、国民生活への影響など最早どうでもよかっただろう。
もっとも欧米の太陽暦への関心が明治以前になかったわけではない。とくにペリー来航以降は外国と貿易するうえで、たがいのこよみをすり合わせる必要性が高まり、安政三年(一八五六年)には幕府が和暦とグレゴリオ暦を対照させた『萬国普通暦(ばんこくふつうれき)』を発行している。
改暦による混乱のさなか、
福沢諭吉が解説本でひと儲け
とにもかくにも改暦は断行された。しかしこのような国民を無視した強引な政策を庶民が簡単に受け入れるわけもなく、突然目の前に現れることになったグレゴリオ暦の1月1日を正月として素直に祝うものなどほとんどいなかったと、当時の新聞は報じている。
そんなかグレゴリオ暦の解説書が続々と刊行されたが、とりわけ福沢諭吉が六時間程度で書き上げた『改暦弁』は解説がわかりやすく、グレゴリオ暦などサッパリだった国民に売れに売れた。たちまち十万部以上を発行し、二、三か月のうちに当時の金で七〇〇円以上を稼ぎ出したという。
福沢は無責任な政府のやり方に批判的ながらも、同書のなかで「太陰太陽暦を使うやつは無学者のバカ」とまで断言しており、その辛辣ぶりがちょっと面白い。
さて、それから約一五〇年。いまや私たちはグレゴリオ暦のほうをむしろ当たり前に使用している。だが世界で最も古くから存在する国家である日本という国を改めて見直すとき、その長い歴史はグレゴリオ暦ではなく、和暦のほうにこそ刻まれているという事実をけっして忘れてはならない。
●参考文献/『現代こよみ読み解き事典』岡田芳郎・阿久根末忠編著(柏書房)/国立天文台 暦計算室