グレゴリオ暦/2015年2月24日 カテゴリー「アート」
「光琳アート ~光琳と現代アート」 むしろ新しい究極のデザイン感覚
デザインが好きです。するのも好き。されたものも大好き。デザインとは、いいかえれば洗練だと僕は考えます。トリミングや省略、抽象化といった、リアリズムとは対極的な加工を対象に対して大胆に行うことで洗練の度合いは加速され、鑑賞するもののなかにリアリズムを超えたもうひとつのリアリズムを生起させます。
優れたデザインとはそういうものであり、多くの場合、素晴らしい美術作品にはすべからくそうした優れたデザイン性が潜んでいます。
江戸時代の画家、尾形光琳(おがたこうりん)はその著しく洗練された美意識により、日本画や伝統工芸に際立ったデザイン性をくわえることで、鮮烈にして「モダン」な作品を数多く残した巨人です。
光琳は俵谷宗達(たわらやそうたつ)、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)とともに、「琳派(りんぱ)」のオリジネイターとしても知られています。ご存じの方は多いと思いますが、ちなみに琳派とは、宗達、光悦、光琳を源流に近現代美術や現在のグラフィックデザインにまで影響を及ぼす表現スタイルの総称で、大胆な抽象化や意匠化、デザイン的な空間づかいなどに特徴が見られます。

熱海のMOA美術館で開催されている「尾形光琳300年忌記念特別展 光琳アート 光琳と現代アート」を鑑賞してきました。
今回を見逃したらおそらくもうそうそう見られそうもない「燕子花図屏風(かきつばたずびょうぶ)」と「紅白梅図屏風(こうはくばいずびょうぶ)」のダブル展示が大きな話題を呼んでいる展覧会です(このあと4月には根津美術館に巡回)。
いやいやいやいや、もう言葉にはいい尽くせない、とてつもないインパクトですよ、両作品とも。
40代のとき描いたという「燕子花図屏風」のミニマルな色使い、色ベタで描かれた葉、デザイン性を重視するため茎とは必ずしもつながっておらず意図的に位置をずらして描かれた花のレイアウト、画面内のとある花の一群を同画面内の別の場所にコピーペイストしたように描かれたループ表現。いま見てもすべてが新しいです。音楽的でさえあります。それも現代のクラブミュージック。
「紅白梅図屏風」のほうも、「たらしこみ」技法で描かれた梅の樹の質感、それと対照的に意匠化された梅の花、幹の大部分を画面の外にはみ出させることで全体を描くことなしに見るもののイメージに拡張された世界を想起させるような大胆不敵なトリミング、そして宗達の「風神雷神」を下敷きにしたという対比によるレイアウト、さらに川の流れを青海波のごとく抽象的なパターンで表現したトンガッたデザイン感覚。どこをとっても、いまもって革新的です。すでに究極です。ほんとカッコイイんですよ。
トバされました。
これまで西洋美術ばかり見ていて、日本美術に強く興味をもちはじめたのは最近なんですが、今回の展覧会で完璧にハマりましたね、日本美術に。
「光琳アート」では、「これもそうなの?」というような近現代アートまで、琳派の文脈で展示されています。魯山人の陶器にまで琳派の影響が見られるというのは面白かったですね。「燕子花図」の花々のように現代女子高生たちを描いた相田誠の作品「群娘図(ぐんじょうず)」や日韓の女子高生が「風神雷神」のように対峙する同じく相田誠「美しい旗」も、なるほどたしかに琳派としかいいようがありません。
またこれまであまり好きではなかった村上隆の作品も、琳派の文脈から見直してみると、がぜん興味が湧いてきます。プラチナ箔を敷き詰めた上に優雅な丹頂鶴の群れを描いた加山又造の大作「群鶴図」も見ることができますが、群鶴図は尾形光琳や酒井抱一(さかいほういつ)らも描いた、琳派が好んで取り上げるモチーフだそうで、村上隆は東京藝術大学時代、その加山のもとで美術を学んでいたという事実はとても興味深いです。
結論として、なかなかよい企画だったと思います。これだけのためにわざわざ熱海まで行った甲斐がありました。また根津美術館では今回は取り上げられていない光琳以前、光悦にもスポットをあてるようなので、こちらも行くことになるでしょう。
ただ難をいうと、会場内の雰囲気が……。観光地にある民間の美術館ではありがちなのですが(団体やグループ、家族連れが多いため)、入場者の方々がペチャクチャペチャクチャ、ガヤガヤガヤガヤ、ワッサワサワッサワサと大変ノイジーでして、しまいには未就学児童と思われる小さな子供は騒ぐわ、プルルルル~プルルルル~とケータイの着信音は鳴り響くわ、もう相当に最低の部類。ハードル低すぎです。もっとも、平日の月曜日とはいえ展示期間がもうすぐ終わりということもあって、こうなることははじめから織り込みズミ。耳栓を忘れた自分が悪かったということで。