グレゴリオ暦/2013年3月11日 カテゴリー「東日本大震災」
3.11
東日本大震災から2年がたって、メディアでも「風化」に対する議論がさかんに行われるようになっています。NHKの特集などでも視聴者からの意見を募っていましたが、驚いたのは被災地以外の地域ですでに風化してしまっているという声が、私が思っていた以上に目立っていたことです。
「あれほどの大惨事をたった2年で風化とかあり得ない」という意見も無論あるのですが、たとえば「被災地でのボランティアをとおして電気の大切さ痛感したが、結局自宅に戻ってしばらくすると節電意識も消えて普通に電気を使う自分がいる」「今日一日職場で話題になることはまったくなかった。風化は確実に進んでいる」「被災地とそれ以外の地域では所詮対岸の火事なのかも」などなど。
忘れることは前を向いて生きていくために与えられた人間の本能だし、忘れられなさ過ぎて意図的にそこに触れないようにしているケースもあると思うので、なにをもって「風化」とみなし、またそれが本当に非難されるべきことなのか難しい議論ではありますが、やはり現実的にはある程度の風化は免れないのでしょう。
私はあの日、都内で蓮見天翔と書籍『バースデームーン』の校正中でした。東京とはいえ古いビルの6階にいたせいもあり、揺れがあまりにも大きく、さすがに一瞬「死」を覚悟しましたね(真剣にこりゃ東京は壊滅だろうと思っていました)。都内の路上にあふれかえる帰宅困難者、大渋滞の道路、荒れ狂う巨大津波に街がのみこまれていく映像、そして極めつけに翌日の原発爆発LIVE中継。すべてのシーンがあれから2年たったいまも目に焼き付いてはなれません。恐怖と無力感。小さな地震でも、つい身構えてしまうクセもついてしまいました。
実際に被災した方々の体験談を新聞なんかで読んで疑似体験すると、やりきれない気持ちになります。だから最近はその手の映像も体験談も見ないようにしていたんです。これって「風化」への第一歩なのでしょうか。
本日付の読売朝刊を開くと、犠牲になった大切なひとへの遺族からのメッセージ特集が掲載されていました。最初、やはりすぐ閉じてしまったのですが、思い直して読んでみました。涙が止まりませんでした。