グレゴリオ暦/2013年3月30日 カテゴリー「文学 , 死」
桜の下のメメント・モリ ~憂鬱の完成~
満開の桜の樹の下には屍体が埋まっている。
そう書いたのは梶井基次郎でした。『檸檬』(新潮文庫)に収録された『桜の樹の下には』という作品です。
ぱっと咲いてぱっと散る花の命のはかなさに無常の美しさを見出す日本人の感性は、潔さこそを是とするサムライ精神そのものでもあります。そのルーツは一義的には禅思想に求めることができますが、実質的には、はっきりとした四季のある日本の風土においてあらゆるものが絶えず移ろい続け、永遠に変わらないものなど存在しないという真理を長い歴史の中でいやおうなく見せつけられてきた原日本人的心性といっていいでしょう。
冒頭の表現はいかにも梶井っぽい偏執狂ライクなまなざしながら、ここにもそうした日本的世界観を見てとることができます。
この観想にいたる直前の出来事として梶井は、渓(たに)で見つけた水たまりが、産卵を終えて死んだ何万というウスバカゲロウの屍体で埋め尽くされている様子を印象的に描きます。そしてそれを見て「墓場を発(あば)いて屍体を嗜(たしな)む変質者のような惨忍なよろこびを俺は味わった」と、ある種の悟りを得るのです。カゲロウといえばご存じのとおり、か弱く短命な生命の象徴。幼虫期も含めればカゲロウの生命はいわれるほど短くはないんですが、これがやはり短命な桜の花と重ね合わされた暗喩であることはいうまでもありません。
ここで、とりわけ私たちを引きつけてやまないのは「惨忍なよろこび」という言葉であらわされた、既視感のような共感を与えてくれる境地でしょう。
表へ出て上を見上げれば、そこには空があって、鳥が飛び、野山には動物たちが走りまわり、ひとびとが日々の暮らしを営む「生」の世界が確かにあります。一方で足元の水たまりにも水面に空が映り込み、私たちが住む「生」の世界がそこにも存在しているかのごとくファンタジックな錯覚を覚えがちですが、そこにあったのはむしろ累々と折り重なるおびただしい屍体の山であり、躍動する生命ではけっしてありませんでした。
梶井が見出したのはすなわち、地面を境に地上側を「生」の世界、地下側を「生」の反転である冥界とした神話的構造です。一方の側だけではいかにもバランスが悪い、プラスとマイナス、正と負、陰と陽が二律背反しながら絶えず表裏一体となってあり続ける世界の根本原理。
この視点に立ってみれば、「死」は「生」の転写ともいえます。事実、私たちは生まれた瞬間から「死」を目指して生きているのであって、だからこそ「生きている」ことそのものをなによりも尊ぶわけです。そう、「生」は「死」に支えられている。サムライたちは、これを意識的に思考しながら生きました。まさしく「メメント・モリ(死を想え)」です。
桜の樹の下には屍体が埋まっている。
「生」の盛りである満開の桜の樹の下には、それを転写した概念としての屍体が、だから絶対に必要なのです。これを梶井は「憂鬱の完成」という、とても魅惑的なフレーズで表現しました。憂鬱の完成こそが自分を和ませ、それによってようやく花見の酒宴を楽しむひとたちと同じ「権利」で酒が飲めると。
ブログやSNSが主流となったインターネットの世界も、これとよく似ています。どんなに「いいね!」な写真も文章も、そこではありとあらゆるすべてのものが数値化されたデータに過ぎず、生命が存在しえない冥界そのもの。そこに私たちは毎日せっせと書き込んで、自分という存在の痕跡を転写しているのですから。